昔の人の足音を感じる古代の幹線道路
国分寺市の泉町2丁目にある、東山道(とうさんどう) 武蔵路(むさしみち)の遺構のレプリカの展示。
7世紀の古代日本では律令制の下、行政区域を五畿(大和、山城、摂津、河内、和泉)七道(東海道、東山道、北陸道、山陽道、山陰道、南海道、西海道)に分けていました。その国府を役人が移動するための道も幹線官道として整備されました。
各国は、そのどれかの行政に割り当てられ、武蔵国は東山道に所属していましたが771年に東海道に所属変更となっています。
東山道は近江国から陸奥国までをつなぐ幹線道路でしたが、途中の上野国から武蔵国をつなぐ枝道として整備されたのが、東山道武蔵路。武蔵国府(現在の府中市)から上野国(現在の群馬)まで、12mの幅広の道路が直線で敷かれていました。
1995年、国鉄の中央鉄道学園の跡地として開発計画中だった泉町2丁目(現在の多摩図書館の近く)で、この東山道武蔵路の跡が見つかったのです。
さすがに全部を保全するわけにもいかないので、レプリカが立つ手前では、東山道武蔵路の側溝があった箇所が、道路にオレンジ色で塗装してあります。
南側にもオレンジの塗装が点々とあります。
泉町2丁目の団地前のこの歩道は、車道よりも幅広いのですが、なぜこんなに広いのか疑問に思ったことはありませんか?その理由は、東山道武蔵路の跡を保全しているためだったのです。詳細については、こちらの記事で紹介しているで「古代道路を掘るー東山道武蔵道の調査成果と保存活用ー」という本をぜひ参照いただきたいのですが、実は団地を開発の始まった当初はこの遺跡を保全する計画はなく、遺跡が見つかった後も、東山道武蔵路と重なるように車道を作り、インフラ整備のために地下を掘り起こす計画で推し進めようとした東京都住宅局、国分寺市と開発を担当した公団と、全面保全を望む東京都教育委員会、考古学研究者、市民とで折り合わず難航しました。最終的に開発者側が遺跡の全面保全を飲むことで団地の開発計画が変更され、現在のように遺跡の上にあたる歩道として保全することにしたのです。
この泉町の他にも、国分寺市では西元町の第四小学校跡地でも東山道武蔵路の遺跡が見つかっています。
古代の人が往来した古代の幹線道路。遺跡を見て思いを馳せてみるのはどうでしょうか。
Last Updated on 2月 23, 2020
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