以前紹介した武蔵国分尼寺跡のすぐ隣にある、国分寺市西元町の切り通し。こちらは伝鎌倉街道(でんかまくらかいどう)と言います。

国分寺市西元町の伝鎌倉街道

鎌倉時代に鎌倉幕府と各地を結ぶ幹線道路が整備され、それを「鎌倉街道」と言いました。鎌倉街道には上道(かみのみち)、中道(なかのみち)、下道(しものみち)の3つがあったと言われており、上道が鎌倉から武蔵国西部(今の町田、府中、国分寺、所沢など)を通り上野に行く道、中道が鎌倉から武蔵国東部(今の赤坂または中野を経由して赤羽、川口)を通り下野に行く道、下道が鎌倉から東京湾沿いを北上する道または中道から途中で分岐して、奥州のほうに向かう道だったと考えられています。国分寺市の西元町にあるのは、鎌倉街道の上道です。

なぜ「伝」と付いているかというと、この切り通しが鎌倉街道であったと「口伝」によって伝えられているためです。

伝鎌倉街道の説明

新田義貞が武蔵国分寺に火をつけて退散する時に通ったと言われている伝鎌倉街道

鎌倉時代末期には、新田義貞が倒幕軍を引き連れて上野国から鎌倉へ攻め込んできました。その時もこの鎌倉街道の上道を南下したと言われており、一旦は伝鎌倉街道を超えて分倍河原まで攻め込み、幕府軍と激闘を繰り広げました。ただ、この時は河原で待ち伏せし、地形的に有利な位置に陣取っていた幕府軍に完全に敗北。新田義貞は一旦退散するため、幕府軍の追っ手の目を背けるために武蔵国分寺に火を放ち、そしてこの伝鎌倉街道の切り通しを登って久米川の北側まで退散したと言われています。その日に相模国の三浦義勝率いる兵が加勢して翌日に再び分倍河原まで南下し、不意打ちを行って幕府軍に勝利。その勢いで鎌倉幕府へと攻め込んだのでした。


鎌倉時代の人々や馬の足音が聞こえてくるかのような、雰囲気のある伝鎌倉街道。短い距離ですが、切り通しを歩いてみて思いを馳せるのはいかがでしょうか。

Last Updated on 2月 23, 2020

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